昭和初期
川崎には軍需と結びついた金属機械器具・化学工業などの工場が次々と進出し
その後の京浜工業地帯へとつながっていく華々しい発展をとげていた
その軍需都市川崎市は1942(昭17)年
米空母「ホーネット」から発艦したB25による本土初空襲を皮切りに
約20回に及ぶ空襲に見舞われ
川崎大師、駅、警察署、消防署も炎に包まれ多数の工場が灰燼に帰し川崎区の大半が焦土と化した
いわゆる川崎大空襲である
戦後復興の一環として
川崎駅から程近い富士見公園に競輪施設を設置し
1949(昭24)年:市営川崎競輪が開催された
<昭和36年度・川崎市主催・連勝単式車券>
昨今では施設も老朽化し、新しい建物(特観等)も望まれているが
公園内敷地の為
再建できない状況下にある
その歴史を刻んだ施設では
今でも多くの観客を集めている
神奈川県川崎市川崎区富士見
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